怒りも悲しみも、すべてを音に。
奇跡の連続のなかでみたもの。
– 北川和樹さん vol.2 –

(vol.1はこちらから)


2011年5月、東京お台場。

東日本大震災直後の日本で、「ideas worth spreading(価値のあるアイデアを広める)」という主旨のもと、世界中の著名人がプレゼンテーションをおこなう、TEDxTokyoが開催されました。

テーマは”Entering the Unknown(未知への扉)“。


なんと、北川さんもその日のプレゼンターのひとりでした。


−TEDxTOKYOに出演される時の心境はどんなものだったのでしょうか?

実はあの日、会場に向かうまえに個人的にとてもいやな出来事があって。”TED”についても正直なところよく知らなかったので、会場に向かう途中で帰ろうかなと迷っていたくらいでした。

でも、会場に着いて”これはいつもとなんか違うな”とすぐに肌で感じました。企業の社長や大学の教授などがたくさん観に来ていて、なんだかこれはタダゴトじゃないぞと、その時に初めて気づいたんです。

そして、たしかに緊張もあったのですが、

それよりもあの時は

“この怒りや悲しみがごちゃまぜになった感情のエネルギーを、全て音楽にぶつけてやろう”と意図的にその感情を本番までもっていきました。


全身の感覚を研ぎ澄まして、身体の奥底から溢れ出る言葉にならない感情を、全て音に注ぎ込む。

過去も未来もなく、あるのは”今”という時間だけ。

そうして作り出されたエネルギーは、人の本能を揺さぶる強烈な空気振動となって、細胞レベルでそれに触れた人たちの心を動かす。

それは、あの日あの場所で、全てのタイミングが奇跡的に重なっておきた化学反応。同時に、彼の人生が大きく変わりはじめた瞬間でもありました。


その展開をお話する前に、ここで少し時間を巻き戻して。(前回のストーリーはこちらから)

オーストラリアでストリートミュージシャンとして一躍有名になり、「日本でもこのディジュリドゥを試してみたい」という思いをもって帰国した北川さん。

しかし、日本では、期待していたような評価は得られず、次第に焦り始めていた時に出会ったのが、「ヒューマンビートボックス」という技術でした。


”ヒューマンビートボックス”とは、人間の発話器官を使って音楽を創りだす音楽表現の形態の一つ。

もともと彼は、自身の表現したい音楽が明確にあった。”ドラムンベース”はそのひとつ。それを実現するためにも、この技術との出会いはとても大きいものとなる。

もちろん、楽器とアボリジニーの文化はとてもリスペクトしているけれど、そこに囚われすぎてしまうのは違うと思っている。

いわゆる伝統的なスタイルの奏者からは批判も多く受けるなかで、負けず嫌いな彼はめげずに自身の音楽を追求していく。そして、より個性的な奏法で、さらなる独自の音楽を生み出していった。

そうして、彼の技術は驚くようなスピードで向上していった。そんななかで、次第に「いい楽器が欲しい」と思い始める。しかし、海外に買いにいくのにはお金がかかる。

そこで彼は、”自分で作る”という試みをスタートする。

なるべく生活費を節約をするために、友人のキャンピングカーで暮らしながら、ひたすら制作をする毎日。アルバイトで稼いだお金は全て、ディジュリドゥ制作のための材料費に消えていった。

最初はエンビパイプや水道管を使って、何百本も作った。

シドニーで働いていたときに、毎日大量のディジュリドゥを毎日見ていたから、どんな構造や材質のものが良い音がでるかということは、感覚で知り尽くしていた。


「とにかく、自分自身がいい楽器を欲しくて制作をはじめました。最初は木で作っていたのですが、日本の気候との相性の問題があり、あまり上手くいきませんでした」

そこで、彼はFRP(繊維強化プラスチック)でつくりはじめる。耐久度も高く、ディジュリドゥを作るには完璧な素材。

満足のいく一本を求めて、ひたすら制作を続けた。


次第に、完成度が高い納得がいくものができるようになっていき、仲間のあいだでは製作者としても話題になっていった。そして、少しずつオーダーを受けるようになっていく。

今では、奏者のニーズにあわせて、かなり自由にカスタマイズして制作することができるようになり、製作者としても高い評価を受けている。


奏者としても製作者としても、世界レベルで有名になった北川さん。

そして、いよいよ”あの”運命の出会いが待ち受けていたのでした…。

vol.3に続く。


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andre