あの時、”底”で出会った

ディジュリドゥと。


– 北川和樹さん vol.1 –


すごく面白くて、すごく繊細な人。
ディジュリドゥ奏者、北川和樹さんに初めて会った時の印象。


神奈川県茅ヶ崎出身。
2018年、突如、沼津市戸田に謎の楽器を背負って現れ、地域おこし協力隊として活動。戸田の特産物、タカアシガニで作ったタカアシガニリドゥが話題を呼び、メディアでも引っ張りだこの一躍有名人に。


そんな彼ですが、実はこれまでの道のりにはいくつかの”底”があったと言います。そんなときに出会ったのが、このオーストラリアの民族楽器”ディジュリドゥ”でした。


大阪の大学に通っていた頃、友人に「北川は日本にあってないから、海外に行ったほうがええよ」と言われ、そのまま勢いでオーストラリアへ。英語力ゼロ、お金もほとんどなく、あったのは大阪のノリとギターだけ 笑。

「音楽さえあれば、言葉なんて」と信じて、海を渡った北川さん。


しかし、現地に着くと、さっそくハプニング。持っていったギターが壊れてしまいます。

その時に、たまたま入ったお土産屋さんで目に入ったのが、このディジュリドゥ。その時はただ、「このギターケースに入りそう」という理由だけでこの楽器を選んだ。店員さんに「チープ・チープ!」と必死で伝えて、一番安いものを購入。


仕事を得るために面接を受けるものの、英語が分からず、落ちたことすら分からないという状況。

次第に所持金がなくなり、帰りのチケットすら買えない状況に陥る。所持金、残り50ドル。
絶対絶命の大ピンチ。

そして、最後の50ドルを使いきったとき、もうほとんど勝手に体が路上に向かっていた。

「あれは、まさに”底”という感じでした。あの時の恐怖は今でも忘れられません。ものすごく悲しかったし、もう無理だと思いました」

そして、気づいたら路上で演奏していた。
がむしゃらだった。いつ死んでもおかしくない、ただ底に残っていた僅かなちからで動いていた。

「もちろん、ディジュリドゥはまったく吹けないんですけど。だから、ホームレスに絡まれて、殴られたり、お金をとられたりもしました。でも、20代って回復力があるんですね 笑。朝になるとまた元気になって、毎日路上でひたすらディジュリドゥを吹いていました」


そんなある日、目の前にひとりの中国系オーストラリア人が立っていた。
「君、すごくいいね。演奏はとにかく下手だけれど、君がいいのはそのガッツあるハートだ」

そして彼は言った。
「俺に着いてこい」

着いた先は、ディジュリドゥ専門店。


そして、ここで働くことになる。

仕事内容は日本人相手に日本語でディジュリドゥを売ること。そのデモンストレーションをするために、毎日、朝から晩までひたすら練習をする日々。

「Don’t stop! Play!(やめるな!練習!)」と言われながら。

お店が終わってからも、路上で演奏。一日トータルで10時間、練習づけの日々をそこで約8ヶ月間すごした。


完全独学で、毎日ひたすら練習。お店に置いてあるCDは全て聴き放題だった。

いわゆる伝統的な奏法を実践する奏者から、批判されることもたびたびあった。それでも、自分の感覚を信じて練習を続けた。

そうこうしているうちに、少しずつ上達していって、次第にまちにいたアボリジニーたちに「マイマック」と言ってもらえるようになっていた。アボリジニーの言葉で「いいね!」という意味の言葉。

また、あるときは地元の新聞記事に「シドニーの名演奏者、実は日本人だった」というような内容の記事が掲載されたりもした。

上達するにつれて、ディジュリドゥがどんどん楽しくなっていった。

そして、ある日あることに気づく。

一般的にディジュリドゥは”循環呼吸”という呼吸法が必須といわれているが、彼の場合は完全独学だったため、この循環呼吸を身に付けずにそれ以外の高度な技は全て習得していたのだ。

だから、今でも彼の演奏法は「とてもユニークだ」と世界中のプレイヤーに評価されている。

そして、あっという間に一年が経過。

「日本でディジュリドゥを吹いてみたい」という想いをもって、帰国する北川さん。
さて、ここからまた、さらならるストーリーが待っていたのでした。

vol.2へ続きます。



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andre